漢方の歴史と今

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漢方は日本だけ?

「漢方」という呼び方が日本固有の呼称であることをご存知ですか?「漢方って中国の薬でしょ?」という方も多いと思います。実は漢方は中国の中医学を元に、日本で独自に発展した医学です。
紀元前200年頃に医学書『黄帝内経(こうていだいけい)』が、紀元後200年頃に『傷寒雑病論(しょうかんざつびょうろん)』が『張仲景(ちょうちゅうけい)』によってまとめられ、それが中医学の原典となっています。
黄帝内経は著作者が不明であり、当時の流行りで「黄帝」という伝説的な人物を著者とすることで書籍にハクをつけるといったものがあり、それによって「黄帝」という名前がつけられたのではとも言われています。「黄帝」の名前はさまざまなところに使われているので、聞き覚えがある方も多いのではないでしょうか?

漢方と権力の歴史

そんな中医学ですが、日本には西暦600年頃に伝わったとされ、西暦701年の大宝律令により中医学が天皇や、貴族のための医学として採用されます。その後、永観2年(西暦984年)に丹波康頼(たんばのやすより)により日本に現存する最古の医学書『医心方(いしんほう)』がまとめられます。
この『医心方』は天皇から当時、医務のトップであった半井光成(なからいみつなり)に下賜、半井家では門外不出としてきたため、安政1年(西暦1854年)幕府に貸し出されるまで公開されなかったとのことです。

権力者はより長い時間支配を続けるため、腕の良い医師を確保し続け日本の歴史の裏では、医師の争奪戦も行われていました。織田信長は当時の名医であった曲直瀬道三を直々に訪問し、天皇から許可を得て分け与えられた天下第一の名香と謳われる香木、蘭奢待(らんじゃたい)を贈ったほど重要視し、その他、徳川家康や豊臣秀吉、毛利元就もなども当時の名医と呼ばれた人物を主治医として抱えていました。

このように、日本に伝わった中医学は権力者とつながりをもち、争いに利用されるようになったため、『医心方』が1000年近く公開されなかったように、秘匿され、血筋や師弟でのみ伝わるようになりました。

西洋医学の伝来と漢方の岐路

江戸時代になると、医療は本道(漢方の元となった医学)と鍼灸、外科に別れ、本道は今で言う、内科の働きをしていました。本道はさまざまな流派に別れ、研究が重ねられて行きましたが、江戸時代後期になると転機が訪れます。西洋医学の伝来です。

西洋医学は蘭方と呼ばれ、それに対をなすように、本道は漢方と呼ばれるようになりました。当時の漢方医には蘭学を積極的に学ぶものもいれば、受け入れないものもおり、派閥が別れるようになりました。この論争は幕末まで続き、明治政府による医療制度の整備で決着がつくこととなります。

明治政府は当時、大きな問題となっていた脚気の治療で漢方と西洋医学の比較を行いました。患者はランダムに振り分けられ、医療を受けることとなりましたが、意外にも治療成績が良かったのは漢方でした。では、漢方を日本の医療制度として採用しよう!となるかと思いきや、漢方医たちは、自分達の技術を外に出したがりませんでした。過去の歴史から、漢方の医療技術は基本、門外不出とされていたからです。

最終的に、技術の共有を基本とする西洋医学が日本の医療制度の基礎として進められることとなり、大学で西洋医学を中心に医学を学び、国の認可を得た者以外は医師として認められなくなったことで、残念ながら漢方は公的な医療の世界で発言力を失って行きます。

漢方のポテンシャル

このような事情から医療の世界で絶妙な立ち位置となっている漢方ですが、それでもその知識や技術は人を通じて伝わり今に残っています。
なぜこの長い歴史を経て、今に残っているかといえば、それは他に変わることのできない価値があるからであると私たちは考えています。
明確な症状のない体調不良や、体質改善の必要なひとの選択肢として、非常に有力である漢方が必要な時、必要な人の手により早く渡るよう、Le'ANZUは日々努力を続けてまいります。